Exit Exit ひろ さちや氏の  般若心経入門
わかりやすい、人生の見方が変わる、気持ちが楽になる、ひろ さちや氏の「心経」の読み方



いま『般若心経』は、日本のビジネスマンにとっての必読経典
日本の企業は国際化の波の中で、価値観の多様性を持たねばならない
すべてのものごとを「空」と見るようにすれば苦悩は克服できる

ところで、”般若”といった言葉は、サンスクリット語の”プラジュニャー”
(その俗語形が”パンニャー”)の音訳語です。意味は「智慧」です。
ただし、一口に智恵といっても、いろいろあります。金儲けのための智恵だとか、 他人を騙すための智恵といったものもあります。
しかし、般若の智慧はそういうものではありません。それは、ずばり言えば、

  ほとけの智慧

なのです。だから、わたした、ちが普通に持っている凡夫の智恵に対して、 智慧といった漢字で表記します。 もっとも、発音は同じだから、般若の智慧と言ったほうが明瞭に区別できますね。
その意味では、『般若心経』は、

   智慧のお経

  です。わたしたちに、ほとけの智慧を持ちなさいとすすめているお経です。
では、ほとけの智慧とは、どういうものでしょうか・・・・・?

『般若心経』は、

 観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時  かんじさしぼさつ ぎようじんはんにやはらみつた じ
 照見五薀皆空。度一切苦厄    しようけんごうんかいくう どいつさいくやく

[観自在菩薩は般若波羅蜜を行じられて、すべてのものが「空」だと照見され、あらゆる苦厄を克服されました]、
と冒頭で言っています。

”観自在菩薩”は、一般には観音さま(観世音菩薩)と呼ばれている存在です。”般若波羅蜜”とはほとけの智慧を 完成させることです。”五薀”とはわれわれの肉体と精神、つまりすべてのものです。
”度”というのは、克服することだと思ってください。

観自在菩薩とは、その名の通り自由にものを観ることができる菩薩(仏道を歩んでいる入)ですね。
なぜ彼が自由自在にものを眺めることがでぎるようになったかといえば、 彼が般若波羅蜜(ほとけの智慧の完成)の修行をやったからです。ほとけの智慧の完成をして、 すべてのものが「空」だとわかった。
その結果い彼はあらゆる苦悩を克服できたのです。 だから、あなたがたも観自在菩薩のように、 ほとけの智慧を完成させて、すべてのものごとを「空」と見るようにしなさい。 そうすれば観自在菩薩と同じように、自由自在にものを見ることができ、苦悩を克服できますよ。
『般若心経』はそう教えているのです。
ここで要点は、

   自由自在に見る

ということです。
裏返しに言えば、われわれはものごとを自由自在に見ていないのです。
こだわって見ている。捕らわれて見ているのです。つまり、。われわれは「奴隷」になっていて 「自由人」ではないのです。そうでしょう、奴隷というのは、ご主人さまが自分をどう見ているか、 それが気になってならないのです。
それと同じで、サラリーマンは上司が自分をどう見ているか、それが気になってならないのだから、 奴隷になっているのです。そうすると、上司の言葉によって傷つき、神経症になるのです。

  奴隷になるな!
  自由入であれ!

『般若心経』はわたしたちにそう教えてくれているのです。


欲望の奴隷ではなしに欲望の主人になればいいのです

では、われわれがなぜ奴隷になってしまうのかといえは、その根本原因は、欲望にあります。 われわれが欲望を持っているから、奴隷になるのです。だがら、われわれは欲望を捨てるべきです。 と言えは、必ず反論があります。入間は欲望を持つから進歩発展をし、向上するのだ。 欲をなくしてしまえば、入間は駄目になる、と

だが、じつは、仏教の開祖の釈迦は、欲望に二種類があることを洞察されたのです。 その二種類の欲望を、わたしは、 自然的欲望と奴隷的欲望 と名づけています。 自然的欲望というものは、それが充足される自然になくなってしまう欲望です。 たとえば、空腹のときにめしを食えば、食欲は自然になくなります。腹一杯食べて、 それでもまだまだ食いたい・・・・・
などとは誰も思いません。腹 一杯食べると、それで終りです。

だが、金の場合は、そうはいきません。金が欲しいと思っている者に、たとえば百万円をあげます。 そして、さらに百万円あげると言えば、ほとんどの人がそれを貰うでしょう。さらに百万、 さらに百万と追加しても、「もう要りません」と言う人はまずいまぜん。これが奴隷的欲望です。 いくら充足されても、なくならない欲望。これは、人間が欲望の奴隷にされてしまったのです。 この奴隷的欲望は、それを充足させようとしてはいけないのです。 われわれは、欲望を充足させると幸福になれると思っています。つまり、

幸福=充足/欲望

といった方程式を信じているのです。
たとえば、年収二千万円欲しいといった欲望があり、実際には一千万円の年収しかないときは二分の一の幸福、 一 千五百万円だと七割五分の幸福、そして二千万円得られるようになれば百パーセントの幸福、と考えています。 けれども、そうではありません。かりにわれわれの年収が二千万円になったとすれば、 そのときはその人の欲望が膨れ上がっています。
いや、五千万円ぐらい欲しい・・・・・となっています。それが奴隷的欲望の本性なんです。

だから欲望を充足させることによっては、人間は幸福になれません。
幸福になるためには、別の方程式が必要です。それは、

幸福=知足/少欲

です。
欲を少なくし、足るを知る心を持たねばなりません。その「少欲・知足」によって、 あなたは幸福になれるのです。考えてみれば、現代日本は、すさまじいまでの、

  欲望主義社会

ですね。そこでは欲望が無条件に肯定され、欲望を充足させることが絶対善と信じられています。 ちょっと怖ろしい社会です。 わたしたちは物質的に豊かになったにもかかわらず、
ほとんどの人がまだまだ十分ではない。

  もつと もつと

と考えています。


われわれは欲望を充足させると幸福になれると思っている

企業などは、前年度並みの成績だと赤字も同じだ、前年を上回る成績を上げねばならない、 と言っています。それは奴隷的欲望であり、わたしたちは欲望の奴隷になっているのです。 日本人の平均寿命は世界一だそうです。

にもかかわらず、誰もがまだまだ長生きしたいと願っています。しかも、長生きすれば病気になるのは当然なのに、 長生きと同時に健康を望んでいます。欲張りです。ともかくいおかしな現代日本の社会です。 ですが、わたしはおかしいと思っていますが、そうは思わない人が大勢おられると思います。 その人たちにとっては、

おかしいと思っているおまえがおかしいのだ

となるのでしょう。
人間は欲望を持つのがあたりまえで、欲があるからこそ社会は進歩発展をするのだ。 仏教は「欲を少なくせよ」と教えているのであれば、それは仏教のほうがおかしい。 社会の進歩発展を阻害するような仏教の教えに、われわれは聞く耳を持たぬ。そう言われるでしょう。 これは、わたしのほうにも、そのように誤解させた責任があります。 わたしは先程、「欲を少なくせよ」と書きました。 この表現はいささか不的確でした。 というのは、『般若心経』は、「空」を教えています。

「空」というのは、ものに物差しがついていない

ということです。だとすれば、
欲を少なくするというのは物差しにもとづいだ表現だから、「空」という言葉にそぐわないはずです。

『般若心経』が言っているのは、欲を少なくせよ、というより、 欲望の奴隷になるな!

あなたは、欲望を自由自在にコントロールできるようになりなさい

ということだと思います。
現代的な言葉で言えば、 もっと主体性を確立せよ! ということでしょう。欲望の奴隷ではなしに、 欲望の主入になればいいのです。
欲望の奴隷になった状態というのは、ちょうどたばこがそうです。 たばこは百害あって一利なしで、他人に迷惑をかけるものです。 日本の火災の第一原因は喫煙によるもので、社会的損失は税収の数倍になるそうです。 ところで、人がなぜたばこを吸うかといえば、たばこがたばこを吸わせる要因をつくるからです。

一本のたばこを吸うと、そのたばこが次のたばこを要求します。そして、その欲求を満足させれば、 その満足させる行為が次のたばこを要求するのです。 これが欲望の奴隷です。欲望のままに入間が動かされている。 もっとも、酒にもそのような要素があります。 が、たばこは麻薬ですが、酒はそうではなく、中毒する度合いが少ないのです。 いずれにせよ、

『般若心経』の教えは、欲望の奴隷になるな!

であって、
わたしたちが欲望を主体的にコントロールできるのであれば、いくら欲望を持ってもよいのです。 しかし、たいていの入間は弱いのですから、欲望をコントロールすることはなかなかできません。 それであれば、欲望を少なくしたほうがいいのです。そういう意味での「少欲」だと思ってください。




『般若心経』は欲望に歯止めをかけよとは教えていない

さて、あなたは奴隷になっていませんよね。
日本のビジネスマンはややtもすれば会社の奴隷になってしまっています。 会社奴隷ということで”社奴”、あるいは”社畜”といった言葉までがあるそうです。 家に飼われている動物は”家畜”で、会社に飼われている動物だから”社畜”と言うのだそうです。 情けないですね。

奴隷というのは、自分独自の価値観を持たずに、会社が押し付けてくる価値観で生きている存在です。 会社が敷 いた出世コースのレールを、なんの疑 いもなく走っている人間。 収入が多い ほどいいだろう・・・・・ということで、残業や休日出勤を唯々諾々とやっている人間。 身も心も会社に献げ尽くした会社人間。それは奴隷ですよね。 そして いままでの日本社会では、 そういう奴隷入間が「ういやつ」でした。

日本経済はそうした奴隷人間(忠臣)に支えられて発展してきました。 だが、これからの時代、そのような 奴隷人間は、きっと「お荷物」になるだろうと思います。



なぜなら、
日本の企業は国際化の波の中で、価値観の多様性を持たねばならないからです

企業が与える価値観に従順に従う奴隷入間よりも、主体的な判断力を持った自由人を、 企業のほうが求めているからです。会社のために・・・・・と思うてやったことが、逆に会社を潰す結果になった、 といったことが、あちこちで起きています。 そのときはその価値観でよかったのですが、時代の変遷がその価値観を誤りにしてしまったわけです。 すると、忠臣が逆臣になります。

これからの時代、そういう価値観の逆転は頻繁に起きるでしょう。だから、会社奴隷であってはいけません。
その意味で、

『般若心経』です。

奴隷になるな! 自由入であれ! と教えている『般若心経』は、
いま日本のビジネスマンにとっての必読経典です。

わたしたちは『般若心経』に学んで、なにはともあれ自由人になりましょう。 自由人というのは、自分の物差しを持っている人間です。 われわれは欲望主義の社会の中にあって、際限のない欲望を持たされています。 そして科学技術は、次から次ヘと欲望を拡大しています。

さあ見てごらん、現代の科学技術は、こんなこともできるのでずよ・・・・と、
これまでの人間は思いもしなかった新しい欲望を開発し、わたしたちにその欲望を植えつけています。 わたしたちはその新しい欲望を充足させようと、がんばりにがんばって働かざるを得ません。 そして、もう身も心もくたくたになっています。 しんどいですね。

しんどい世の中です。その欲望に、ちょっと歯止めをかけましょうよ。 いや、歯止めをかけるというのは、『般若心経』の教えではありません。それは禁欲主義の考え方です。

『般若心経』は、あなたの主体性を確立せよと言っているのです。あなたが主体的に判断して、 「もっと・もっと」と欲望を拡大したいのであれば、そうすればいいのです。 しかし、あなたが受け身であって、世間の物差しに従った欲望を持たされているのであれば、 そんな世間の物差しを捨ててしまいなさい、と言っているのです。 そして、あなたは、「わたしにはこれで充分である」 と、主体的に判断しなさい。そういう自由人であれ、 と、『般若心経』は教えているのです。




『般若心経』は、あなたの主体性を確立せよ と言っているのです

あなたが会社を馘になることを心配して、会社の命ずるがままに生きているのであれば、あなたは奴隷でしかありません。しかし、あなたが主体的判断をして、家庭を犠牲にしても会社のために尽くす、と言うのであれば、 それはそれで立派です。(もっとも、わたしはそんな人間を軽蔑しますが、それはわたじの価値観からしてです。)

ともかく、自由入であれ、自分の物差しを持つことが肝要です。

会社の思惑を気にし、びくびくしているなんて、最低の生き方だと思いますね。

子どもの教育に関してだって同じです。 他人の子どもが大学に行くから、うちの子も行かせようなんて、世間の奴隷になっているのです。 そんな親だと子どもがかわいそうです。子どもは子どもの人生を生きるのですよ。 親が考える入生を子どもに送らせようとすることは、子どもを奴隷にしているのです。

ともあれ、奴隷になるな! 自由人であれ! それが『般若心経』 の教えです。
そして『般若心経』は最後に、

 翔諦 翔諦 波羅翔諦 波羅僧翔諦  ぎやてい ぎやてい はらぎやてい はらそうぎやてい

 菩提薩婆訶             ぽ じ そ わ か

と言っています。
これはサンスクリット語の発音を漢字で表記したものですが、わたしはこれを私流に意訳して、 次のように訳しています。

「自由だ! 自由だ! 自由になった! わたしはすっかり自由になったし ほとけさま、ありがとう」
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▽摩訶般若波羅蜜多心経(まかはんにゃはらみたしんぎょう)

  般若心経の全文

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)

仏説摩訶般若波羅蜜多心経
(ぶっせつまか はんにゃはらみた しんぎょう)

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
(かんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみったじ しょうけんごうんかいくう)

度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
(どいっさいくやく しゃりし しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう)

空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
(くうそくぜしき じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ しゃりし ぜしょほうくうそう)

不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
(ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん ぜこくうちゅう)

無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
(むしき むじゅそうぎょうしき むげんにびぜっしんい むしきしょうこうみそくほう)

無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
(むげんかい ないしむいしきかい むむみょうやく むむみょうじん)

乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
(ないしむろうし やくむろうしじん むくしゅうめつどう むちやくむとく)

以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
(いむしょとくこ ぼだいさつたえ はんにゃはらみったこ)

心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
(しんむけいげ むけいげこ むうくふ おんりいっさいてんどうむそう)

究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
(くうぎょうねはん さんぜしょぶつ えはんにゃはらみったこ)

得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい こちはんにゃはらみった)

是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)

能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
(のうじょいっさいく しんじつふこ こせつはんにゃはらみったしゅ)

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
(そくせつしゅわっ ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい)

菩提薩婆訶 般若心経
(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)




1 観自在菩薩:<かんじざいぼさつ> 観音菩薩が・・・

2 行深般若波羅蜜多時  <ぎょうしんはんにゃはらみったじ> 「般若波羅蜜多」という涅槃への知恵を深く行じていた時に・・・

3 照見五蘊皆空  <しょうけんごうんかいくう> 「五蘊」という「色・受・想・行・識」はすべて「空」であるとその本質を見極めたのだ。ここに、「色」は物質的実在、「受」は外界から受ける印象の感受、「想」は表象、「行」は意思、「 識」は認識。

4 度一切苦厄 <どいっさいくやく> すべての苦厄から解放された。

5 舎利子 <しゃりし> シャーリプトラよ。仏弟子への呼びかけ。 

6 色不異空 <しきふいくう> 「色」は「空」に異ならず。

7 空不異色 <くうふいしき> 「空」はまた「色」に他ならず。

8 色即是空 <しきそくぜくう> 「色」はすなわち「空」であり、・・・

9 空即是色 <くうそくぜしき> また、「空」こそが「色」である。

10 受想行識亦復如是 <じゅそうぎょうしきやくぶにょぜ> 「受想行識」(五蘊のうちの4つ)もまた、「色」と同様に「空」なのである。 

11 是諸法空相 <ぜしょほうくうそう> 凡てのものは空相にして、・・・

12 不生不滅  <ふしょふめつ> 生じることもなく、また消滅することもなく、・・・

13 不垢不浄  <ふくふじょう> 穢れることもなく、浄化されるのでもなく、・・・

14 不増不減  <ふぞうふげん> 増えるのでもなく、減るのでもなく、・・・

15 是故空中 <ぜこくうちゅう> それゆえに「空」には、・・・

16 無色 <むしき> いろもなく、・・・

17 無受想行識 <むじゅそうぎょうしき> 実体もなく、「受想行識」もなく、・・・

18 無眼耳鼻舌身意  <むげんにびぜつしんい> 「六根=眼耳鼻舌身意」もないので、・・・ 

19 無色声香味触法  <むしきしょうこうみそくほう> 「六根」が感得する「色声香味触法」もないのだ。

20 無眼界 <むげんかい> 可視できるものもなく、・・・

21 乃至無意識界  <ないしむいしきかい> 意識に智得されるものもない。

22 無無明 <むむみょう> 無智・無明もなく、・・・

23 亦無無明尽  <やくむむみょうじん> 無明の尽きることもなく、・・・

24 乃至無老死 <ないしむろうし> また、老死することもなく、・・・

25 亦無老死尽  <やくむろうしじん> また、老死が尽きることもなく、・・・

26 無苦集滅道  <むくじゅうめつどう> 「四諦」(「苦」人の生の苦しみ、「集」は煩悩のために苦を生ずる、「滅」とは煩悩を滅すること、によって涅槃に至る八正道という「道」に励むべきであること)もなく、・・・

27 無智亦無得  <むちやくむとく> 悟りのための「智」もなく、また「智」を得ることもなく。・・・

28 以無所得故  <いむしょとくこ> 持つべきものは何もないのだから、・・・

29 菩提薩埵 <ぼだいさつた> 「菩薩」 (悟りを求めて修業する人)は、・・・

30 依般若波羅蜜多故  <えはんにゃはらみつたこ> 「般若波羅蜜多」の知恵の故によって、・・・

31 心無罣礙  <しんむけいげ> 心に「罣礙(けいげ)」というこだわりがなく、・・・

32 無罣礙故  <むけいげこ> こだわりが無いことの故に、・・・

33 無有恐怖 <むうくふ> 恐怖するものも無く、・・・

34 遠離一切顛到 夢想 <おんりいっさいてんどうむそう> あらゆる本末転倒した妄想を離れて、・・・

35 究境涅槃 <くきょうねはん> 究極の涅槃の域に、・・・

36 三世諸仏  <さんぜしょぶつ> 過去、現在、未来の「三世」に居た諸仏が、・・・

37 得阿耨多羅三藐三菩提  <とくあのくたらさんみゃくさんぼだい> 「阿耨多羅三藐三菩提」という最高の知恵を得て、・・・

38 故知般若波羅蜜多  <こちはんにゃはらみつた> 故に、知るべし、「般若波羅蜜多」の智恵は、・・・

39 是大神呪  <ぜだいじんしゅ> これは偉大かつ神聖な真言であって、・・・

40 是大明呪  <ぜだいみょうしゅ> これは偉大にして智恵ある真言であり、・・・

41 是無上呪 <ぜむじょうしゅ> これは、無上の真言で、・・・

42 是無等等呪 <ぜむとうどうしゅ> これと等しい真言は無く、・・・

43 能除一切苦 <のうじょいっさいく> よく一切の苦を除き、・・・

44 真実不虚 <しんじつふこ> 真実にして虚にあらず。

45 故説般若波羅蜜多呪  <こせつはんにゃはらみつたしゅ> 故に、「般若波羅蜜多」の真言を説こう。

46 即説呪曰  <そくせつしゅわつ> すなわち、真言を説いて曰く、・・・・・・・・・

47 羯諦 羯諦 <ぎゃてい ぎゃてい> 行く者よ、行く者よ!

 波羅羯諦 波羅僧羯諦 <はらぎゃてい はらそうぎゃてい> 迷いの世界から悟りの彼岸へ行く者よ、確固として行く者よ!

 菩提薩婆訶 般若心経 <ぼじそわか はんにゃしんぎょう> 幸いあれ、般若心経

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